2008年03月04日

ボート部での経験

彼からボート漕がないか?との誘い。うーん、中学校では、小学校から競技を続けていたメンバーに勝てずイマイチだった。そうだ、ボートならいいかも・・そんなこんなで岩手の盛岡三高での生活が始まった。さて、そこから人生が大きく変わっていった。ボート部に入り、何かやっているって感じに少しずつ・・二年のときに、先輩がインターハイへ出場、そして同級生も一緒に出場・・・なんと全国四位に・・・三年生になる。前年に先輩とコーチが喧嘩をして、我々にはコーチがいなくなった。自分達で練習を考え、実際に練習した。厳しさより、なあなあになっていくような感じもしたが、自分達しかいないのだから、自分達で考えて練習するしかなかった。そのことがいい結果として出てきた。自分達で練習を組み立て、漕ぐ。考える。ラッキーもあったと思う。ほかの高校は毎日練習。我々の高校ではテスト一週間前は練習禁止。練習時間だけをみると少なかったと思う。しかし、県予選から全国大会へ。なぜどんどん上がっていったのか?不思議な力によって、奇跡的に全国大会で準優勝できた。これからボートの世界への導きがおきる。
同志社大学のボート部へ。ブラックジャックに憧れ、医者になれたらと思っていたが、能力も自覚も足りない。そんなところへ、各大学からボートでの誘いが・・ ・推薦で引っ張られる。明治、中央、同志社など数大学から推薦。先輩が同志社にいた。そんな中、入試の不安もあって推薦に乗った。しかし、体育会系の推薦は文系のみ、同志社大学の経済学部。でも俺は理系だ。結局、経済学部の推薦入試に受かっていながら辞退する。
しかし、工学部で受験して入学できた! そんなこんなで結局、工学部に入学、ボート部へ。四年間合宿生活、毎日朝五時から三時間の練習、終わったあと、一年生は皿洗い、買い出し、練習についていけない。 夕方五時からまた三時間練習。これが毎日だ・・・たまらん! しかも工学部で学びながら・・・そして、高校生レベルの体力が如何に低いのかが骨身にしみた。徹底的にしごかれた。一緒に入ったメンバーは、入院する者、富士山へ逃げる者・・・たいへんな厳しい練習。授業なんか行けるわけない。疲れてしまって、いつ逃げようか、そんなことばかり考えていた。
しかし、八月の全日本学生選手権、一回戦、及び敗者復活戦で敗退・・・でも、これを経験してしまうとボートはやめられない。必死で二千メーターを漕ぐ、そして、ローアウト(漕ぎ疲れて気を失う)する。でも、終わったら、それまでの練習や合宿生活での苦しかったことすべてが、みんなでひとつの目標に向かっていくことの喜びに変わっていった。ボートという競技はチームスポーツだ。そしてエイト。八人+コックスがそろわなくては何もできない。全員の力を合わせて、最高の一本のオールを漕ぐスポーツが、ボート。人間の肉体の限界を、二千メーターにかける。 誰か一人が強くても勝てない。一人一人のベクトルが合わなければ前に進まない。本当に毎日の練習で、一人でも欠けたら練習ができない。八人が六分間、まったく同じ動作をする。一本一本のオールを全員のために力をこめる。タイミングがずれていたらバランスが崩れ、船が進まない。そんな学生生活で、一年で取った単位が、半分以下。今ならすぐに留年・・そんなボート漬けの生活の中で、二年目にエイトに乗る。オックスフォード杯で準優勝ができた。先輩とみんなと、必死で漕いだ。そして、二年目の勉強の方は、学生運動が盛んでレポート試験・・助かった。四十近く取れる。三年で「対抗」(一軍)へ、でも春先に、新人と交代して「ジュニア」(二軍)へ。悔しかった。でも、ジュニアでも必死で漕いだ。三回生として、四回生と下級生との連携の中で、なんとしても結果を出す。結局、オックスフォード杯で全国四位に。これも、準決勝で負けかけていたのをギリギリで決勝へ進んだのだ。
しかし私は、四回生ではジュニアの担当をと監督に申し出た。工学部でもあり、ジュニアを見させてくださいと・・ そしてジュニアを任せられた。そこで今までとはまったく違う練習をした。高校時代の練習方法。コーチから指示された練習はまったくやらず、一人一人の成長に合わせた内容にした。徹底的に考えた。体力も経験も一軍には程遠いメンバーで、どう勝つのか・・・どう考えても昨年より戦力は劣る。そう、徹底的に基礎を行う。普通の半分のピッチで漕ぐ。陸上での練習も徹底的に合わせる。バック台というレールだけの練習機で、徹底的に呼吸と漕ぎを合わせる。琵琶湖で一番遅いクルーだと言われた。そんなことはどうということもない。しかし、そんな遅かったクルーが速くなってきた。 どんどん・・・ 目をつぶっても、一人一人のオールが見える。水に入る最初のポイントが見える。足の裏の指の先で、水に入るタイミングがわかる。そんなクルーになってきた。ジュニアの船が走り出した。漕いでいて笑えてきた。あまりにもオールが軽い、そして、船が走る。この感触は、フロー感覚だ。この感覚は、天国にいるような感触だ。突然、オールがしなりだす、船が走り出す。高校のときに感じた感覚が戻ってきた。そう、フロー感覚。楽しい、本当に楽しい。みんなが笑って漕ぐ。それだ・・・それがボートだ。
言われるまま漕ぐんじゃ、単なる拷問にしかならない。今でも一番感謝しているのは、漕手のことを考えて、毎日飯を炊いてくれているマネージャ、そして学連担当のメンバー、金集めに走ってくれるみんな、そして、みんなが漕いでいけるように環境を作ってくれる部長や、艇友会、すべての人たちがいて、今のこの一本が漕げるんだ。そんなことが、わかってくるんです、実際に・・・ せっかくのみんなとの時間、楽しく、そして試行錯誤。みんながひとつになったときに、空を飛べる。そんなことを後輩には四年間で味わってほしいと思う。四年間、徹底的に鍛えられた。その中で、フォローワーシップならびにリーダーシップを教えられる。そしてとうとう、対抗にジュニアが並べて勝っていけるようになる。体力と経験ではない、自らが考えて漕ぐということが、とても大きな力になる。私はみんなを集めて、科学的にボートがなぜ走るのかをレポートに書いて、見せていた。
そんなとき、コーチから、クルーをばらばらにすると・・・ なぜそんなことを・・今までのことを否定するように・・・ 悔しい。涙が出た。そんなに信用できないのですか!と言ってしまった。私は一軍へ戻ってくれと言われ、上がった。しかし、インカレ前の関西での試合はまったく振るわなかった。ガタガタの状態だった。
そんな中、マネージャが、二ヵ月後の全日本大会のための最後の賭けを後押ししてくれた。急ごしらえのため、チームのユニフォミティができていない。このままでは決勝へ進めない。マネージャ達と、早く開催地の東京へ行って、荒川で徹底的に漕ぎこんでチームを固める。通常より一ヶ月も前に東京へ、そして全日本へ。準決勝で優勝候補を追い詰めて、最後、腹を切ってしまい二位だったけれど、決勝へ。最後は、死に物狂いの決勝、いったん二位まで上がっていながら、私が最終まで力が続かなかった。四位に終わった。しかし、これすら無理なような状態だったのを、この一ヶ月の練習と、池谷君の執念の漕ぎ、彼の七番のオールの力が二番の私にまで伝わった。なんというやつだ。俺がもっと体力があれば・・・社会人になっても、ずっと親友だ。あいつがいて俺がいる。そんな中で・・・ なんとジュニアが優勝した。オックスフォード杯で。なんともうれしい。そんなジュニアを引っ張ったのが、私と替わった野瀬君。彼の力が全体の力を引き出したのだ。一軍二軍とも入賞、そんな結果を得られた。すばらしい友と四年間であった。三十年過ぎてもいまだに先輩後輩ひっくるめて、親しくつきあっている。一生涯の友ができた。そのフローの経験が、自分の人生を決めた。




arayamanet at 04:22│Comments(0)TrackBack(0)clip!未分類 

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