2008年03月05日

京セラにて

さて、四回生の八月末まで、ボートだけに必死だった。就職のことも考える余裕がまったくなかった。どこに行こうか考えないと、卒業もしないと・・・そんな中で、どうせなら、一番の会社へ。日経の成長率ランキング一位の会社は・・・京都セラミック、株価日本一・・・と、京都ではないか!電話して面接へ。スーツも持っていない。だから学生服で、五十ccの原付で京都セラミック山科へ。面接・・・というより何名かの方と面談・・・なんと試験もなし。合格・・・へって感じ。まだそのときは小さい会社だったけれど、これから成長する会社を選べた。大学での評判は、あそこはとても厳しくて離職率が高いから、と他の会社を薦められたりもしたが、ここに決めた。体育会系で、真っ黒、体力あり、なおも学生服(俺だけだった)、使いやすそうですから・・・?
さて、そんなこんなで、稲盛和夫さんの最初の著書を読んだ。ある少年の夢。その中に、「人生の結果=能力×熱意×考え方」の一行があった。そうだ、俺たちがボートで東大に四年間負け続けたのはなぜか? 体力、経験、絶対に俺たちが上だ。でも負けた。そうなんだ。ボートもこの方程式が生きていた。自分の中でびっくりした。俺たちが四年間負け続けた理由がわかった。意識が違っていたのだ。試合が終わって、東大の漕手の話を聞いた。勉強もするが、練習休みは正月一日くらいで、テストが終わって帰ってきて、筋力トレーニングを自分で行う。全員が、自分の考えの中で練習し、最高の結果を試合で出す。ちなみに身長は、私たちのクルーは一八〇センチ超。全員高校からの経験者。また体重も七三キロ程度。東大のメンバーは、一七〇センチそこそこ、体重も六五キロくらい、高校での経験者は少なかった。何とか就職の内定が得られたが、単位不足は恐怖であった。しかし神風が吹いた。またもや学生運動で、試験がレポートに。ラッキーにも卒業できた。ボートから開放されて何か目的がなくなり、力が抜けた。王将でバイトなど、やっと学生らしい生活が送れるようになった。
社会人に・・・ そして、稲盛さんの会社に入ることができた。研修で稲盛さんに会った。入社の時に、「人間は、どれだけがんばれるんですか?」という愚問をした。「仕事での徹夜や、がんばりは、なんのことはない」というような答だったように思う。
研修後、セラミック事業部に配属。同期は三百人、各地の事業所へ配属されていった。実家からなるべく遠いところへ行かされているように思った。自分は琵琶湖にも近い滋賀工場、セラミック事業部であった。入社研修の際、いろんなメンバーがいた。今までのボート部の合宿からするととても楽だったが、中にはグチグチいうメンバーもいた。「だったら辞めたらいいやないか!」と言った。本当に辞めていった。京セラはこの考え方の部分は徹底していた。
京セラフィロソフィとの出会いもあった。潜在意識に透徹するほどの意識を持って、土俵の真ん中で仕事をする、など、刺激があった。また稲盛社長の話を聞くことがとても勉強になった。セラミック事業部には技術部すらなかった。製造部技術課へ。セラミックについてはまったく知識がなかった。しかし、そこは、自分の知らないことでもなんでもやっていって、大失敗をした。知識のないままにいろんな展示会へ顔を出して、今の課題に何とかなりそうな技術だと思えば、可能性に挑戦していった。しかし、本質を知らないことがどれだけ怖いことか!千五百万円の機械を導入しておきながら結局使えなかった。 そんなことがあったころ、ラグビーでの試合で足の靭帯を切ってしまった。入院だ。 えらいことになった。 もうクビだと思った。実際、評価はとても低く、入院しているときにそう思った。心がいい加減だったのだ。だから出てくる答もいい加減だったのだと思う。もう、クビ覚悟で一ヶ月して職場へ、とてもつらい状況。最後に何ができるだろうか?えらそうに、機械を導入すればこうなるんです、などとのたまっていた自分が恥ずかしい。
とりあえず今自分ができることをやろうと思った。それは、朝の机ふきとゴミ出しである。仕事ができないのであれば、最初に来て掃除だけは・・・と一ヶ月行っていた。すると、最初は誰も声をかけてくれなかったのが、ポツポツと声をかけてくれる人が出てきた。うれしかった。
まずセラミックのことを知らなくてはだめだと思い、毎日、夜二時までセラミックの本を読むことにした。現場の知識はわからないけれど、セラミックの学術的な本を徹底して読んだ。結晶や成分、特徴など、これらのことが自分を助けてくれた。徐々にセラミックの本質がわかってくると、会議で出てくる色々な問題や課題に対しての答が、本で得た知識をもとに仮説を立てて実証していくことで、確実に出てくることがわかった。
すぐに機械を入れてしまうのではなく、仮説を検証して、プロトタイプを立ち上げて、しっかりと現場へ落とし込んでいく。そんな中で、品質管理技術を学ぶ。
そのころから、不良を削減するための方法をコツコツと実証してきた。徐々に問題を解決できるようになり、また、開発も可能になってきた。またこのころから、機械を入れるときには、太郎坊さんという、京セラがお参りしている神社にお参りして、どうかちゃんと動いてくれますように・・と。これ以降、機械は、苦労はするけれど、動くようになっていった。
そして、半導体業界からのとてつもない品質要求が。ppm管理の導入である。つまり、これからの半導体は、多くのパーツの中で組み合わされることになる。たとえばひとつの製品に1000個の半導体部品が使われているとすれば、仮に100個に1個の割合で不良がある部品では、全体の品質はそれらの掛け算になる。つまり0.99の1000乗、これはさていくらになるでしょう? 0.004パーセント、つまり10万個に4個しか良品が出てこないことになる。半導体部品の信頼性を維持するためにはセラミックパッケージは、ppm=100万個に一個の不良を管理することが必須だった。しかし、この品質を維持するためにはどんなに検査をしても不可能だ。なぜなら検査でスクリーニング(省けるのは)できるのは、95パーセントだからだ。そう、すべての工程で、不良を作らない。工程能力を徹底的に上げ、それぞれのプロセスごとに管理を行っていくことが、不良をなくしていくことにつながる。各工程で品質を造り込むことしかない。
各工程の不良 標準偏差 σ1・・・σn 全体の不良が出る確率 σall=√(σ1^2+σ2^2・・・・σn^2) 各工程の相乗平均によって表される。つまり、規格が工程のばらつきの1・3倍あれば、不良は統計的に0になる。そのためにそれぞれの工程で起きる不良を徹底的になくしていく、「夢ライン」 プロジェクトを立ち上げていった。最初は、そんなことができるわけがないとみんなが言った。しかし、まず原料の不良の原因を徹底して受け入れ検査で省いた。その次に、プレスでの湿度、温度の影響を受けての不良、これは工場全体を恒温恒湿に、季節要因が出ないような環境にしていった。このようにプロセス全体に対して大幅に改革を進めていった。
開始から三年で、工場は、まったく不良の出ない「夢ライン」となった。そのころ私は二七歳、部下も三十名くらい。京セラだからこのようなプロジェクトができたと思います。なぜなら、それぞれの部門で工夫をして、欠けがないよう、不良が出ないよう徹底していったからです。でも、これは自分が考えたんだと傲慢になっていたところもあったと思います。天狗になっていた自分がいたのだと思います。
その後、自分はなんとしても海外へ行きたいと思っていました。会社には海外研修制度があり、申し込みました。選抜され、研修に行かせていただきました。これがまた、自分の考え方を大きく変えてくれました。一九八〇年代のアメリカ。そのころは「ジャパンアズNO1」という時代で、アメリカより日本の方がすごいんだと言っていたころです。でも、半年間勉強させていただき、とても勉強になりました。 アメリカのダイナミズムに対して・・また、ベンチャー魂など、実際の経験ができたことがとてもすばらしいことでした。
このころから、自分は、セラミックの世界だけではなく、可能性を見出すために一度世界へ飛び出していきたいと思っていました。二八歳、セラミック全体の技術責任者になっていた。そして半年の海外留学、とてもありがたい。何物にも変えがたい経験をさせていただいた。そして不良0ライン「夢ライン」を構築したことで、今まで月に三十パーセントもの不良が出ていたのが、ゼロに・・大きなの赤字が出ていた事業部がとても大きな黒字に・・ そして品質が著しく向上することによって、セラミックパッケージの世界シェアは、No.1にもなった。「夢ライン」の構築で、社長賞をいただけました。海外への夢ラインプロセスのプレゼンのために多くの国へ行った。とてもすばらしい経験をしました。
そんな中で、三ヶ月に及ぶ海外出張から帰ってきてから、組織変更がありました。 そして本社勤務に・・・そう、本社の戦略開発室に召集されました。でも、現場から離れていることが、ちょっとさびしい感じがしました。また、数年で、経営推進室という社長直轄の部署に異動しました。多分そのときが、京セラが中国などへ進出するタイミングだったのだと思います。そして、私に中国海外推進室責任者の辞令が出るタイミングが、ちょうど私の三五歳の誕生日でした。『企業家誕生―四十歳からでは遅すぎる』(邱永漢著)を読んでいて、人生の上で、事業を立ち上げるのであれば三五歳と決めていました。「夢ライン」を通して、支援いただいた中小企業の方々のように、社会の中で事業を立ち上げられたらという思いがあったのです。また、本社という現場と離れたところでの活動が、自分のやりたいこととは違っているような、なにか違和感があったのかもしれません。
そんな中で、自分の将来を考えていました。事業を自分がやってみたらどうなるんだろう。本社部門で企画を書いていることから、自分自身が計画して、稲盛社長が経験されていたような、事業の一からの立ち上げを経験しなくては、本当の事業家としてどうなんだろうと考えていて、事業計画を作り上げた。
自分ではこの内容を京セラの事業としてできればとも思っていたが、甘かった。これからの仕組みを考えていく上で、「夢ライン」を実際に手伝っていただいた方々の事業を、元気にする会社をイメージしていた。今回の計画は京セラの中でと考えていたことで、実際の顧客がいるわけでもなんでもなかった。  
自分の中に、今後の人生を考えて、今を逃したら・・という焦りがあったようだ。一ヶ月間いろいろ話があったが、最終的に退職してスタートすることになった。今までは、何をやるにも、自分がこうやりたいということをやらせていただいていた。今回の事業計画も自分の新しい取り組みとして、イントラプレナー(社内事業)としてやれたらと虫のいいことも考えていた。しかしそうはいかなかった。




arayamanet at 04:23│Comments(0)TrackBack(0)clip!未分類 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔