2008年03月07日

本当の自立へ

この失意のときに両親の暖かい庇護があったことは、今でもとても感謝している。両親の愛がなければ、立ち直っていくことはできなかっただろう。失意の中で考え、新しく一歩を、今度は人に依存せずに自分自身で立ち上げていかなくてはと選んだのが関西空港、りんくうタウン。二四時間空港が九月にオープンする。どこに行こうか?関西空港の前、りんくうタウンで、世界に羽ばたくんだと、りんくうタウンへ。そのりんくうタウンに一棟だけビルがあった。十一階建てのそのビルの事務所に行って、部屋を貸してくれ・・・と。突然来た人間に貸す人はいないよね、普通。でもしばらく考えて返事するとのこと。お金は無い。部屋は一番小さい部屋。そんなところへ十一月に入れた。それもそのはず、りんくうタウンに来る企業はほとんどなく、半分以上の部屋が空いていたのだ。
前の会社で一緒に苦労していたメンバーが来てくれた。仕事も何もないところからスタート。当然給与もない。三名が馳せ参じてくれた。でも仕事がない・・・どうするんだ。今までお付き合いしてくれていた方々へお願いに行く。くれる仕事は何でも引き受けた。みなさんには本当にお世話をかけてしまいました。そんな中で、シャープのコピー機の三次元位置検出装置の開発を最初の仕事としていただいた。必死のパッチだ。もと、生産技術で一緒にやっていたメンバーが一人いた。私が営業と機械設計、彼がソフトウェア。しかし大変だった。必死で、三ヶ月で仕上げた。でもそれは、原価二〇〇万円、売値二五〇万円。これではやっていけない。みんなも半年以上給与無しでがんばってくれた。二台売れた。でも・・それではやっていけない。もう生産技術系では儲からない。必死で次の仕事を探した。以前はタクシーを使っていた距離を歩く。ローソンのおにぎり、梅にぎりだけで、とりそぼろは買えなかった。そんな中で、父親の会社の社長と会う機会を父が作ってくれた。最初はけんもほろろ。何しに来たのか?って。それもそうだろう。突然、会わせてくれっていって、仕事ないですか? ずっと粘った。そのときはまだウィンドウズが出ていないころ。屋根の建材問屋だったその会社は、ニバンクスという積算のシステムが入っていた。金額は二五〇万円、DOSの画面で、使っていないとのこと。このシステムよりもっといいものをつくるのでぜひ開発させてくれ・・・と、もう必死だ。三月に訪問して、五月末に持って来ると言い切った。ここは、できるできないではない。そのときに作るしかなかった。それを開発するためのパソコンもなかったので、叔父さんにお金を借りにいった。
実は、国民金融公庫へも行ったが、こんなわけのわからない状況では相手にされなかった。また住友銀行にも・・当然、けんもほろろ。だから、頼れるのは叔父さん、身内・・・仕方ない。三十万円借りてすぐにパソコンを買いに走った。そのころ出始めの、98ではないwindowsマシンで開発することに決定していた。なんとありがたいことに、友人がゴールデンウィークも来て手伝ってくれた。休みなどない。ずっと開発・・・開発ツールもビジュアルベーシック2・0。これは、ウィンドウズ用開発ツールで、且つ、日本では発売されなかったツール。だから英語である。なんとしてもお金を返さなくては・・そして、三ヶ月間必死で取り組んだ。バグだらけ、そう、そんなの関係ない。プレゼンで、動きそうな雰囲気をかもし出しながら、説明。全然遅い。でも・・・やるしかない。そして一〇台の発注をもらう。一台200万円、一〇台である。それを八月のお盆までに完成させて、それを元に研修会を行うことに・・ すごいことだ。またもや必死のパッチが始まった。
だましだましで一〇セット完了。しかし、まともに動かない。そりゃそうだ。やっつけでカタチにしていった。研修中に不具合がいっぱい出てくる。それを開発のメンバーが徹夜で次の日までに修正。私は研修へ。それと、他社と差別化するために導入したのが、三次元CAD。そのころ3DCAD自体とても珍しいとき。そのときに、MicroGDSを標準装備した見積積算システムと銘打った。このために、たった一週間で屋根工事の汎用図面を五〇種類書き上げた。まったくのズブの素人であった。そのときまでCADをさわったこともない、屋根の納まりもわからないまま、一週間で仕上げ切った。
初めての研修会、全国からパソコンをさわるのが初めてという方々が集まって、合宿。その点は問屋の社長の先見の明があった。やっと販売できた二〇〇〇万円だ。やっと飯が食える。それを問屋と共同で販売へ。全国各地で説明会を行った。やはりつながりを持っているところである。販売が進む。半年くらいで一気に販売していったが、納入してからもバグがまだまだある。 研修しながら、画面のバグの状態をすぐにパソコン通信で担当者に送って、ただちにプログラム修正にかかる。徹夜で修正して、すぐ検証。そのまま研修。大変な作業を、全国を回りながら進めていった。
全国の専門工事業の方々を徹底的に回った。そんな中で、いろいろな事業の本質が見ええてきた。システムを導入してくださった板金業の方がみんなとても元気になっていくのだ。なぜだろう?今回の見積積算システムには直接原価計算システムを入れている。それがそのまま、それぞれの工事の実行予算となり、確実に利益が見える。そんなシステムになっていた。京セラでは当たり前の直接原価での計算が、建設業界ではできておらず、私達のお客さんは利益が増加していった。しかし、一〇〇台くらいが売れたころ、問屋さんからの注文がばったりこなくなることがあった。月の売上が一万円に・・・このまま依存していては危ないと、自分達でセミナーを打った。チラシを五千通まいて一人だけ。でもセミナーを行った。二〇名をサクラにして・・ この一人の方が三重県の理事長さん。それから、直接販売を進めていった。また、定年退職となった父と一緒に仕事ができた。父親の献身的な仕事を通して、マドックは何とか立ち上がった。そんなときに、仕入先が、他のソフト屋に私達のソフトウェアとまったく同じものを作らせて、自社の商品として販売してきた。我々の技術力の不足とあきらめた。
依存していてもやっていけない。セミナーで、「利益を二倍にする」原価管理とCADのシステムによる利益向上戦略を徹底して行っていった。そのころには、Windows98などパソコンが当たり前に使われるようになってきていた。そして、見積がワープロ並みに出てくるだけで喜んでいたのが、エクセルやアクセスなどで簡単に見積ができるような時代になってきたのだ。ソフトの値段もどんどん下がってくる。競合も出てきて、どのように差別化するか悩んだ。パッケージソフトだけではダメだ。なぜなら、ソフトは今後もどんどん値段が下がっていく。リナックスやフリーソフトなど、無料のものも次々出てきて安くなる。エクセルもみんな使える。アクセスで簡単なプログラムまで・・ そんな状況であせりもあった。
 パッケージ関連の売上だけではだめなのはわかっていた。
そんな時、二〇〇〇年のISOの改定があり、大幅改定の内容を読んだ。今までのISO9000:94年では、「品質保証」ということが重要視されていたのが、今回この言葉がない。「品質マネジメント」という言葉に変わった。英語版のドラフトしかないときに・・・すぐにこの規格にとりくんだ。なぜなら、いくらシステムを入れても会社の仕組みができていなかったら、動かない。システムの責任ではなく、その会社のマネジメントシステムに問題がある場合がとても多かった。そしてその中に書かれていた言葉・・・「組織は顧客に依存する。」この言葉こそが、これからの中小企業の進んでいくべき方向を示していると思った。ISO9000:2000年版を、専門工事業として初めて、二〇〇一年三月に取得を支援、このときの審査には、全国からこの審査内容を見るために十名近い審査員が集まった。この会社は屋根の職人さんの会社で、みんな中学、高校卒、五十歳以上の方も多いのに、大きな変化が表れた。マニュアルはたった二十ページのシンプルなものに。そして誰でもわかるようにフロー図で工程を表した。整理整頓、挨拶などから、大きく変わっていった。このことがきっかけで、当社の本質的な理念「企業を元気にする」方向へ、システムだけでなく、マネジメントシステム構築を行う方向へ大きく舵をきることになった。
また、厚生労働省の教育訓練制度でこの業界で初めて、教育訓練補助の認可が取れた。見積り積算、CADのソフトウェア関連で初めて・・ 百人以上の方にこの仕組みを活用いただいた。組合の全員が受講したケースもあった。従来のソフトウェアの販売であれば、仕入れもほとんど無く、粗利も高いし、売れればそのまま利益になったが、教育やISOのマネジメントシステム構築となると、べったり相手先に入り込んで、会社を変えていくことが必要になる。全国を飛び回った。しかし収益は上がらない。労働集約的になっているのと同時に、経費過多。十名余りの会社で年間二千万円以上の交通費がかかることが異常であったと思う。「企業を元気にする」と掲げていながら、相変わらず会社はとても厳しい状況であった。なんとしてもとがんばって、営業に飛び回っていた。
また、再婚もした。子供達も高校、大学と控えている。絶対にやり遂げる。弱音を吐いていることもできない。三年前、とても大きな赤字を出した。会社を存続させるかどうか・・・結論を出さなくてはならない状況に・・・このままではやっていけない。自分がどんなに必死で動き回っても、もうどうしようもない状況だ。WEB、システム、ISO、建築支援業務、CADなど、それぞれのメンバーがやっている事業をすべて把握できるわけでもなく、一気に伸ばすこともできなかった。
一人で何とかしようとすることの限界を感じていた。しかし、企業を元気にするという理念のもとで、十年以上やってこられたのは奇跡のようなもの。それもみんながいなければやってこられなかった。そうだ、今までのようにトップダウンで、顧客の状況も関係無しに、上から指示していたのを、みんながそれぞれの力を発揮できるように、支援する側に回ろう。もしそれがダメであっても、今まで支えてくれたみんなの結果であれば、最後のケツは自分で拭こうと・・・死ぬまで借金した分返していったらいいのだと開き直った。それから、各メンバーを集めて、みんながやりたいことをやろう!と宣言した。二四時間どんなときでもスケジュールを入れていい、と。私はみんなの支援を行う、と。
その後、まだまだ、完全に回復はしていないが、それぞれのメンバーが、自分達でマスタープランを立て、事業を推進していくようになっていった。ISOを取得して、みんなが自主的に内部監査を行い、また不適合への対応をしたりしながら、二名を取締役【三三歳、三二歳】に上げ、毎月のマネジメントレビューを任せ、進めていくようになりつつある。




arayamanet at 04:25│Comments(0)TrackBack(0)clip!未分類 

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