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2008年03月13日

心の栄養

「良心の全身に充満したる丈夫の起り来らんことを」      新島襄


「 すべては、プラスの方向に向かっている・・・すべては、プラスの方向に向かっている・・・たとえ、環境がどうであろうと、すべては、プラスの方向に向かっている」  自分

「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に、力と勇気と信念とを持って、自己の人生に対する責務を果たし、常に平和と愛とを失わざる立派な人間として生きることを厳かに誓います」                     中村天風

「さしあたる事柄のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず」  中村天風




「苦難は幸福の門」               丸山敏雄



「宇宙は感謝からできている」          金只京三さん 




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2008年03月12日

自分が苦しいときや、毎日繰り返し言っている言葉

心の状態は、コップの中の泥水といっしょです。四六時中マイナス意識でいる人が、十分間プラスに思っても心は変わっていきません。常に明るく、前向きに思い続けていると、泥水だったコップの中に清らかな水がいつも流れ込んでくるように心がだんだんと澄んでいきます。いつも心をプラスの気持ちでいっぱいにして感謝し続けることが心をプラスに変えていく秘訣なのです。
また、何か成し遂げようと新たな行動をとることは、今までのことを変えることになります。すると、変化に対して、変化に抵抗する力が必ず出てくるのです。そんな抵抗や苦難に出会ったとき、心が恐れたり、悩んだり、悲しんだりしたとき、どうしても困ったときに言う魔法の言葉。いつも心が後ろ向きになったときや、心がマイナスになりかけたときに、「あっ いけない。危ない危ない。切り替えよう」とつぶやいていることばがあります。
「すべては、プラスの方向に向かっている。・・・すべては、プラスの方向に向っている。・・・たとえ環境が、どうであろうと、すべては、プラスの方向に向かっている。」たとえどんな苦しい場面でも、必ず、これらはプラスの方向へ向かっているんだと思うのです。そうすることで、とても大きな気持ちになり、何があっても右往左往することはありません。いつも誠実に一所懸命生きていくことで、最高の幸せになることができると思います。


次の言葉を毎日、鏡を見ながら言い続けてみてください。
「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に、力と勇気と信念とを持って、自己の人生に対する責務を果たし、常に平和と愛とを失わざる立派な人間として生きることを厳かに誓います」

苦難は幸福の門。実は、幸せは、苦難というカタチで、私達に気づかせてくれるのです。だから、苦難をプラスにみることができたら、とても幸せな心になれるのです。私達は必ず幸せになることができます。すべては心が導いてくれます。幸せな人生はすべてあなたの心が映し出してくれます。プラスに思えば、プラスになるし、マイナスになると思えば、マイナスになる。すべては心が産み出す社会なのだから、いつも感謝してプラスに思い、積極的に生きることが幸せになることにつながっていくのだと思います。


ある経営者の一人の方が言っておられました。


「宇宙は感謝からできている」と・・・                                      


実際、そう思います。



 かかわっていただいているすべての方々、顧客の方々、一緒に働いてくれているみんな、パートナーの方々、友人のみなさん、両親、家族、そして妻に感謝してまとめとさせていただきます。




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2008年03月11日

「プラス発想でいること」

2007年 子供達へ書いた手紙から抜粋


将来を憂いとして考えるより、これからの人生は必ずプラスの方向に向かっていくと信じ、今を一所懸命、前向きに元気に生きていくことができたら、自分の思いが人智の及ばざるカタチで、実現してきます。すばらしい将来は必ずやってきます。それは、困難や苦難の壁を一歩越えることによって、自分の魂が、一歩、昇華され、よりよい人格へ進歩していく継続的な改善ではないかと思っています。
時間がない、やることがいっぱいある。でも、今日一日、一分でも人と出会って語らったり、美しいものを見たり、一ページでも本を読んだり、すべてが人生です。まわりの人に興味を持ち、まわりの人を愛することができたら本当にいいですよね!たった一度の人生です。明石家さんまさんは「生きているだけで丸儲け」という言葉から、「いまる」と子供の名前をつけたそうです。・・さんまさんがとてもおもしろく、そして気持ちがいいのは、今ある自分にとても感謝しているからです。感謝で心が満ちているから・・言葉に愛があるのです。
心に感謝が満ち満ちている人の言葉は、まわりを変えます。言葉は言霊と言います。言葉に魂が宿っていきます。これがオーラにも、なります。
批判とできない理由を並べて、実際の行動を起こしていなければも何も生まれません。感謝が一杯の言葉を発していると、言葉に力があります。その環境が明るくなってきますし、勇気が出てきます。物事が、とてもいい方向へ動いてくるのです。
そして、いろんな人との出会いが生じてきます。シンクロニシティ(同時性)といいます。そして人との出会い、その出会いを通じて、思いを実現してくれるように、社会も環境も変わっていくのです。
実は、社会も、宇宙も、そういう感謝の想いからできているのかもしれません。そしてその感謝の気持ちが行動に表れ、より良い社会をつくっていく力になるように思います。今生きていられてこうあること自体、これってすごいことですよね。世界中で、勉強がしたくても、小さいころから働かなくてはならない子供たちのほうが極端に多い。
毎日、食事ができず、何万の人が餓死しています。今の日本人の生活は、今まで人間が暮らしてきた中で一番幸せな状態だそうです。昔の将軍より、今の暮らしの方がずっと幸せな環境だそうです。今自分が置かれている状況を憂いていることは、幸せ行きの船の中で、船底の席はいやだ、上の席がいいと嘆いているようなものです。もっと絶望的な状態で、日々、必死で生きることに精一杯の人が世界では大多数なのです。
すべての感情は、自分のとらえ方です。悲しかったり、不安だったり、怒ったりするのは、自分がそう思うからです。でも、起きていることに対して自分の思い方を変えるだけで、同じ現象が起きても、プラスの心であればプラスに感じることができます。生きていれば、いやなことを言われたり、思うとおりいかないことが多々あります。そんなときに、「なんて私はついていないんだ。私はだめなんだ。将来はどうなるんだろう」と怒ったり、怖れたり、悲しんだりしているより、「ありがとう、気づかせてくれて・・ 自分にはもっと学ぶべきことが多くあることを気づかせてくれた」ってプラスに感じるようにするのです。 
たとえば、交通事故で車をぶつけた。足に怪我をした。Aさんは「私はなんてついていないの・・あの運転手が悪いのよ・・本当についてない、車は壊れるし、悲しい」。Bさんは「あーついていた、これくらいの怪我で済んで・・もっと大きな事故になっていたら・・気づかせていただいてありがとうございます。車が身代わりになってくれた。これからは、気をつけて運転しよう。本当にラッキー」と思う。常にこのAさんとBさんのように、起きたことに対する見方が違うと、この後の人生の歩み方も大きく変わってきます。
これは、同じ現象でもとらえ方が異なり、次の行動の方向も変わってくるのです。そして、いつも感謝で、ラッキーと思っている人は、カラダの中も、幸せだって感じていますから、ベータエンドルフィンという幸せを感じるホルモンが出て、抵抗力も上がり健康な体になっていきます。この世の中は、一人ひとりみんなが幸せになれるように、修行と勉強の場です。今そのときを、一所懸命に取り組んでみる。何か自分で勉強できることはないか?社会で起きていることすべてに興味を持って行動することによって、今取り組んでいることに一所懸命であればあるだけ、プラスの人生がもたらされます。
心配もたくさんあるでしょう。でも、絶対に何とかなります。必ず、今、自分に起こっていることは人生の中で気づきを与えてくれることなのです。たった一度の人生なのです。生きているだけで丸儲けなのです。起きてきた現象を常にプラスにとらえることと、あまり、こうでなくてはならないと思い込まない。人生は、いろんなカタチで、本当の自分の天命を気づかせてくれます。
さまざまな苦難というカタチで・・ そう、「苦難は幸福の門」。今の現象は、自分を幸せにしてくれる気づきの現象であることを・・・感謝です。ありがとう。何が今自分にできるかと考えたときに、素直に自分が思ったことをまとめて、読んでもらいたいと思いました。こういう機会を得られたのも、この五十歳という節目があったからです。
これからは、本当に、みんなの冨と健康と愛を育てていくという思いで、生きていきます。





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2008年03月10日

人生を振り返って

いっしょに企業を元気に、夢を育てているみなさんへ
 
自分自身も、実際に社会に出て、いろいろな悩みを抱えていた。敢えて何か説教めいて話すより、半世紀を、自分がどのように感じて生きてきたか、率直に、自分の生きてきた心情をまとめるという機会を今回見つけた。今まで書いてきたことは、私の人生を振り返って、生まれてから、学校、会社、社会との交わりや、経営という事業を通じて感じたことです。赤裸々にこの五十年の心情を書き出してみた。これが、どうということもないが、人生、一度きり。常に感謝して生きていくことがとても大事だと思えるようになったのは、いろんな苦難を経験してのことだった。私は自分ひとりでは何にもできないことを、この五十年で痛感した。みんながいてくれて初めてマドックという会社でやれた。みんなが力を合わせ、自らの力で成長する姿がとても頼もしいし、また、見せてほしい。ただその事実を話して、たった一度の人生を、すばらしい人との交わりがあり、そして理念を実現することができるプラットフォームに、マドックやドリーム・ジーピーがなることができたら、とてもうれしい。
そして、いろんなことが今までもあったし、これからもあるだろうけれど、今までのすべてのことは必然で、「過去すべてオール善」であることを感じています。
今までの自分の経験や過去は、実は、すべて導かれて今があるのです。今ある自分を肯定してください。昔がどうだった、こうすればよかった・・・それは、もうすでに過ぎてしまっています。過去の結果はすべてプラスなのです。どんなことも・・なぜなら、過去には戻れないし、戻る必要もない。なぜなら、それが今の自分だから・・ 過去は及ばず、未来は知れず・・・過去をすべて肯定的にとらえ、すべてが良かった、感謝で一杯に心の中を満たし、人のために一所懸命になって、社会の中で自分の役割を見つけられることが、とても大事な事だと思います。どんな仕事にも、役割と責任があります。そのことを社会の中で見つけられたらそれは、天職としてとらえられるのでないかと思うのです。何がやりたいかだけではなく、何を自分はやれるのか?役割として活かす事ができるのか?いつもプラスに心がある、そのことがエネルギーの源であると思います。


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2008年03月09日

企業理念

最後に、根本的に理念は変わらない。それは、「企業を元気にする」。「企業を元気にする」ことによって、経営者が元気になり、社員が元気になり、パートナーの方が元気になり、家族も元気になって、ひいては社会が元気になり、日本が元気になる。世界が元気になる。そんなことができたら、どんなにすばらしいだろう。悔い無き人生になると思う。私は、一生涯、企業を元気にして、新しい事業を通して、社会の仕組みを良くして行くことに全力を尽くす。このことこそ、マドック(Management Doctor Corporation)の理念の実現へ向けての歩みであると思う。
そのことが一生の仕事であると、五十を前にしての天命だと思っています。これからも、毎日、事業を通して、社会の仕組みを良くしていく一助となるべく、社会起業家として一歩一歩、今、自分がやれることを行って、必死でトライしていきながら、試行錯誤の中で学び、より良い理念に一歩ずつ近づいていくことを一所懸命にやっていきます。   今日一日を・・・  




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2008年03月08日

夢を育てる会社 「ドリームジーピー」誕生

そんな中、一昨年、私の会社に出資していただいているエンジェルの方、また、パートナーとして支援させていただいている、レーザーセンサーの電機の会社の社長とともに、ある新しい技術の再構築へ動くきっかけがあった。そのころ、ある大手の会社が、十億円以下の開発案件で将来の見込みが無いものに関しては、整理する方向で動いていた。「かおはん」事業もそのひとつであった。「三次元立体モデル」事業の中のひとつとして「かおはん」の事業を、その大手の会社から引き受けている会社があった。しかし、大手がやっても事業化できなかったものを引き受けて、どのように改善したらいいか、その社長から、同友会のセミナーをしたきっかけで、相談があった。私は、京セラで生産技術の責任者もしていて、ハードもわかり、マーケティングについても会社を興してから学んだ。その社長から支援を依頼された。しかし、私はマドックでがんばらなくてはならないので、支援を行う形で相談に乗っていた。そして、その事業を発展させるための新会社を設立しようという動きになった。
各企業一千万円づつ持ち寄って・・・四社で立ち上げた。それが今の「ドリーム・ジーピー」(Dream GP―Dream Growing Platform)である。当然、その事業を持っている会社の社長がそのまま新会社の社長を務める予定で進んでいたが、ふたを開けてみたらとてつもない大変な仕事。電気も機械もマーケティングも、すべてが必要な大変な仕事であった。何度かその大手企業と打ち合わせして移管を進めていく中で、新しい会社の社長は・・・と、相手先の役員の方から、「あんたしかいないやろ・・」と、突然、私が社長に推挙された。しかし、会社を二つできるほど甘くはない。そのことをマドックの新しい若い役員に相談した。どうすべきか?抜けてもやっていけるか?なんとそのときの答えが「社長の給与、経費も下がるんでしょう?だったらいいですよ」と・・・そう言ってくれて、やることを決意した。しかし、始めてみて困難がよくわかった。まるっきり事業としてなっていない赤字事業。四千万円もあっという間になくなってしまう。また、その引継ぎの際、大手企業でかおはん事業に携わっていたメンバーも引き継いだ。
最初から、売上が無い状態で、今の技術の棚卸しを徹底的にした。三次元立体モデラー: 発想はいいが、まだ実用化への具体的な用途開発ができていない。かおはん: まずは、引き継いだ社員も抱えたし、何とか収益を出さなくては・・・ 三次元足型測定機 : この装置は、市場はとても小さいけれど、デザインや戦略次第では大きな可能性が見えてくると・・・。困っていたときに、人手も足りないときに、新しいメンバーが偶然、入ってきてくれた。また、今までの人脈の中で、マーケティングや、靴業界も知っているメンバーが参画してくれて、新しい事業モデルの構築を手伝ってくれた。最初の半年で、戦略と、各部材ならびに、他社のベンチマークを徹底的に行った。
そんな中で、二〇〇七年四月、まったく新しい商品として設計を変え、出資会社のひとつであるタイヨー電機に製作をしてもらい、四機種を開発し、国際展示会へ出品した。その中での引き合いで、一社で十台の受注、またアディダスへの導入と動き始めたのが、同年春から夏にかけてである。必死で、生き残りをかけながら、何とか売上が立ってきている状態にきたのが今の「ドリーム・ジーピー」である。
「企業を元気にする」本質を追求して、WEB、開発、建築支援、CAD、ISOの事業を行ないながら、新しい体制で自主自立を進めているマドック。二人の取締役を中心に、全員が一体となって事業を進めていくことで、新生マドックとして成長していく。十三年目で、荒山元秀がいなくても回っていくことができる会社になろうと、必死で取り組んでくれている。さびしい気持ちもあるが、二つの事業を同時にやれるほど甘くは無い。
また、私が両方の組織を中途半端に経営するよりも、新しい組織の中で新しいリーダーがどんどん出てくる、そんな形を目指していく(丈夫のおこりきたらんことを)。マドックという、企業を元気にする会社としてやってきて、本当に企業が元気になるためのイノベーションを起こし、新しい商品、サービスを生み出すことが実業として必要と感じ、新しい会社、ドリーム・ジーピーが生まれた。この新しい会社を成功させることが、マドックにとっても、新しい「企業を元気にする会社」として企業創造を行えるという地力が本質的に備わったということにもなるのだ。



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2008年03月07日

本当の自立へ

この失意のときに両親の暖かい庇護があったことは、今でもとても感謝している。両親の愛がなければ、立ち直っていくことはできなかっただろう。失意の中で考え、新しく一歩を、今度は人に依存せずに自分自身で立ち上げていかなくてはと選んだのが関西空港、りんくうタウン。二四時間空港が九月にオープンする。どこに行こうか?関西空港の前、りんくうタウンで、世界に羽ばたくんだと、りんくうタウンへ。そのりんくうタウンに一棟だけビルがあった。十一階建てのそのビルの事務所に行って、部屋を貸してくれ・・・と。突然来た人間に貸す人はいないよね、普通。でもしばらく考えて返事するとのこと。お金は無い。部屋は一番小さい部屋。そんなところへ十一月に入れた。それもそのはず、りんくうタウンに来る企業はほとんどなく、半分以上の部屋が空いていたのだ。
前の会社で一緒に苦労していたメンバーが来てくれた。仕事も何もないところからスタート。当然給与もない。三名が馳せ参じてくれた。でも仕事がない・・・どうするんだ。今までお付き合いしてくれていた方々へお願いに行く。くれる仕事は何でも引き受けた。みなさんには本当にお世話をかけてしまいました。そんな中で、シャープのコピー機の三次元位置検出装置の開発を最初の仕事としていただいた。必死のパッチだ。もと、生産技術で一緒にやっていたメンバーが一人いた。私が営業と機械設計、彼がソフトウェア。しかし大変だった。必死で、三ヶ月で仕上げた。でもそれは、原価二〇〇万円、売値二五〇万円。これではやっていけない。みんなも半年以上給与無しでがんばってくれた。二台売れた。でも・・それではやっていけない。もう生産技術系では儲からない。必死で次の仕事を探した。以前はタクシーを使っていた距離を歩く。ローソンのおにぎり、梅にぎりだけで、とりそぼろは買えなかった。そんな中で、父親の会社の社長と会う機会を父が作ってくれた。最初はけんもほろろ。何しに来たのか?って。それもそうだろう。突然、会わせてくれっていって、仕事ないですか? ずっと粘った。そのときはまだウィンドウズが出ていないころ。屋根の建材問屋だったその会社は、ニバンクスという積算のシステムが入っていた。金額は二五〇万円、DOSの画面で、使っていないとのこと。このシステムよりもっといいものをつくるのでぜひ開発させてくれ・・・と、もう必死だ。三月に訪問して、五月末に持って来ると言い切った。ここは、できるできないではない。そのときに作るしかなかった。それを開発するためのパソコンもなかったので、叔父さんにお金を借りにいった。
実は、国民金融公庫へも行ったが、こんなわけのわからない状況では相手にされなかった。また住友銀行にも・・当然、けんもほろろ。だから、頼れるのは叔父さん、身内・・・仕方ない。三十万円借りてすぐにパソコンを買いに走った。そのころ出始めの、98ではないwindowsマシンで開発することに決定していた。なんとありがたいことに、友人がゴールデンウィークも来て手伝ってくれた。休みなどない。ずっと開発・・・開発ツールもビジュアルベーシック2・0。これは、ウィンドウズ用開発ツールで、且つ、日本では発売されなかったツール。だから英語である。なんとしてもお金を返さなくては・・そして、三ヶ月間必死で取り組んだ。バグだらけ、そう、そんなの関係ない。プレゼンで、動きそうな雰囲気をかもし出しながら、説明。全然遅い。でも・・・やるしかない。そして一〇台の発注をもらう。一台200万円、一〇台である。それを八月のお盆までに完成させて、それを元に研修会を行うことに・・ すごいことだ。またもや必死のパッチが始まった。
だましだましで一〇セット完了。しかし、まともに動かない。そりゃそうだ。やっつけでカタチにしていった。研修中に不具合がいっぱい出てくる。それを開発のメンバーが徹夜で次の日までに修正。私は研修へ。それと、他社と差別化するために導入したのが、三次元CAD。そのころ3DCAD自体とても珍しいとき。そのときに、MicroGDSを標準装備した見積積算システムと銘打った。このために、たった一週間で屋根工事の汎用図面を五〇種類書き上げた。まったくのズブの素人であった。そのときまでCADをさわったこともない、屋根の納まりもわからないまま、一週間で仕上げ切った。
初めての研修会、全国からパソコンをさわるのが初めてという方々が集まって、合宿。その点は問屋の社長の先見の明があった。やっと販売できた二〇〇〇万円だ。やっと飯が食える。それを問屋と共同で販売へ。全国各地で説明会を行った。やはりつながりを持っているところである。販売が進む。半年くらいで一気に販売していったが、納入してからもバグがまだまだある。 研修しながら、画面のバグの状態をすぐにパソコン通信で担当者に送って、ただちにプログラム修正にかかる。徹夜で修正して、すぐ検証。そのまま研修。大変な作業を、全国を回りながら進めていった。
全国の専門工事業の方々を徹底的に回った。そんな中で、いろいろな事業の本質が見ええてきた。システムを導入してくださった板金業の方がみんなとても元気になっていくのだ。なぜだろう?今回の見積積算システムには直接原価計算システムを入れている。それがそのまま、それぞれの工事の実行予算となり、確実に利益が見える。そんなシステムになっていた。京セラでは当たり前の直接原価での計算が、建設業界ではできておらず、私達のお客さんは利益が増加していった。しかし、一〇〇台くらいが売れたころ、問屋さんからの注文がばったりこなくなることがあった。月の売上が一万円に・・・このまま依存していては危ないと、自分達でセミナーを打った。チラシを五千通まいて一人だけ。でもセミナーを行った。二〇名をサクラにして・・ この一人の方が三重県の理事長さん。それから、直接販売を進めていった。また、定年退職となった父と一緒に仕事ができた。父親の献身的な仕事を通して、マドックは何とか立ち上がった。そんなときに、仕入先が、他のソフト屋に私達のソフトウェアとまったく同じものを作らせて、自社の商品として販売してきた。我々の技術力の不足とあきらめた。
依存していてもやっていけない。セミナーで、「利益を二倍にする」原価管理とCADのシステムによる利益向上戦略を徹底して行っていった。そのころには、Windows98などパソコンが当たり前に使われるようになってきていた。そして、見積がワープロ並みに出てくるだけで喜んでいたのが、エクセルやアクセスなどで簡単に見積ができるような時代になってきたのだ。ソフトの値段もどんどん下がってくる。競合も出てきて、どのように差別化するか悩んだ。パッケージソフトだけではダメだ。なぜなら、ソフトは今後もどんどん値段が下がっていく。リナックスやフリーソフトなど、無料のものも次々出てきて安くなる。エクセルもみんな使える。アクセスで簡単なプログラムまで・・ そんな状況であせりもあった。
 パッケージ関連の売上だけではだめなのはわかっていた。
そんな時、二〇〇〇年のISOの改定があり、大幅改定の内容を読んだ。今までのISO9000:94年では、「品質保証」ということが重要視されていたのが、今回この言葉がない。「品質マネジメント」という言葉に変わった。英語版のドラフトしかないときに・・・すぐにこの規格にとりくんだ。なぜなら、いくらシステムを入れても会社の仕組みができていなかったら、動かない。システムの責任ではなく、その会社のマネジメントシステムに問題がある場合がとても多かった。そしてその中に書かれていた言葉・・・「組織は顧客に依存する。」この言葉こそが、これからの中小企業の進んでいくべき方向を示していると思った。ISO9000:2000年版を、専門工事業として初めて、二〇〇一年三月に取得を支援、このときの審査には、全国からこの審査内容を見るために十名近い審査員が集まった。この会社は屋根の職人さんの会社で、みんな中学、高校卒、五十歳以上の方も多いのに、大きな変化が表れた。マニュアルはたった二十ページのシンプルなものに。そして誰でもわかるようにフロー図で工程を表した。整理整頓、挨拶などから、大きく変わっていった。このことがきっかけで、当社の本質的な理念「企業を元気にする」方向へ、システムだけでなく、マネジメントシステム構築を行う方向へ大きく舵をきることになった。
また、厚生労働省の教育訓練制度でこの業界で初めて、教育訓練補助の認可が取れた。見積り積算、CADのソフトウェア関連で初めて・・ 百人以上の方にこの仕組みを活用いただいた。組合の全員が受講したケースもあった。従来のソフトウェアの販売であれば、仕入れもほとんど無く、粗利も高いし、売れればそのまま利益になったが、教育やISOのマネジメントシステム構築となると、べったり相手先に入り込んで、会社を変えていくことが必要になる。全国を飛び回った。しかし収益は上がらない。労働集約的になっているのと同時に、経費過多。十名余りの会社で年間二千万円以上の交通費がかかることが異常であったと思う。「企業を元気にする」と掲げていながら、相変わらず会社はとても厳しい状況であった。なんとしてもとがんばって、営業に飛び回っていた。
また、再婚もした。子供達も高校、大学と控えている。絶対にやり遂げる。弱音を吐いていることもできない。三年前、とても大きな赤字を出した。会社を存続させるかどうか・・・結論を出さなくてはならない状況に・・・このままではやっていけない。自分がどんなに必死で動き回っても、もうどうしようもない状況だ。WEB、システム、ISO、建築支援業務、CADなど、それぞれのメンバーがやっている事業をすべて把握できるわけでもなく、一気に伸ばすこともできなかった。
一人で何とかしようとすることの限界を感じていた。しかし、企業を元気にするという理念のもとで、十年以上やってこられたのは奇跡のようなもの。それもみんながいなければやってこられなかった。そうだ、今までのようにトップダウンで、顧客の状況も関係無しに、上から指示していたのを、みんながそれぞれの力を発揮できるように、支援する側に回ろう。もしそれがダメであっても、今まで支えてくれたみんなの結果であれば、最後のケツは自分で拭こうと・・・死ぬまで借金した分返していったらいいのだと開き直った。それから、各メンバーを集めて、みんながやりたいことをやろう!と宣言した。二四時間どんなときでもスケジュールを入れていい、と。私はみんなの支援を行う、と。
その後、まだまだ、完全に回復はしていないが、それぞれのメンバーが、自分達でマスタープランを立て、事業を推進していくようになっていった。ISOを取得して、みんなが自主的に内部監査を行い、また不適合への対応をしたりしながら、二名を取締役【三三歳、三二歳】に上げ、毎月のマネジメントレビューを任せ、進めていくようになりつつある。




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2008年03月06日

0からのスタート

お世話になった京セラを退職し、ゼロからのスタートを切ることになった。退職後何をするかということはまったく決まっていなかった。初めての会社員ではない生活。まず何とかなるだろうと思っていたが、京セラの看板がないと何もできない自分に気がつく。なんてことになったんだろう。自分の計画性のなさに愕然とする。しかしこれも性格だが・・不安がいっぱいだった。精神的にも、何もできないようなうつ的な状態でもあったと思う。ふとんの中で、本当に身動きができないくらいつらかった。何にもないところからどうできるのか?すべて、ベースがあってできていたことに気づく。つらい、何もすることがない。どうしたら食っていける?子供達、家族、どう守っていくのだ。不安、恐れ、自己憐憫、すべてのマイナス思考の中で、心がとてもさびしい気持ちでいっぱいになった。
そんなときに、ふとんの中で何度も何度も読み返していたのが、中村天風氏の『成功の実現』と『盛大なる人生』。自分自身が行うべきことは何なのか?何のために生きているのか?精神的に追い詰められていた時だった。本の中の<命の唱句>「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず、正直、親切、愉快に、力と勇気と信念とを持って、常に平和と愛とを失わざる立派な人間として生きることを厳かに誓います。」天風氏のこの<命の唱句>の「今日一日、怒らず、恐れず、悲しまず」の正反対だった。たよるのはこの言葉のみ。「怒らず、恐れず、悲しまず・・・」と、心が動揺したり、何か心にマイナスイメージが浮かぶたび、口ずさんでいた。
しかし、いつまでもこのままではいられない。そんなときたまたま妻の会社から、伝手で、技術のある人をと・・お手伝いをすることに・・ 何でもよかったのですが、これが大変。大型プリントの新しい装置でしたが、要は大型のプリンター。これをコントロールして大型のフィルムを作り、それを壁に貼る。そんな大型プリントシステムを作り上げる。さてまだまだ技術的には不十分なプリンター。ムラがあるし、きれいじゃない。パソコンはマック。大阪で泊り込んで作業。技術的には、あの機械を使ってよくそこまでできたと思う。しかし営業が大変。すべて看板などの一回きりのものを営業しなくてはならない。そんな中で、何億円もあるといっていたオーナーがお金を出さなくなってきた。経費は自分でもって、給与はない。そんな状態が続いた。退職金も全部持っていかれ、結局何もなくなった。
人に依存して事業をやろうということが、どれだけの迷惑をかけるか・・それは、本当にまわりの人に迷惑をかけてしまった。海外のプリンターなどもアメリカへ渡って唯一購入してきたりしたが・・事業になっていない。力を貸してくれていた大変多くの人たちに迷惑をかけてしまった。
結局は、自分の事業としての信念がなければ成功しない。まわりに多大な迷惑をかけてしまう。八方塞がり。だまされたような状態。悪いところへは悪いことが重なる。離婚も経験する。子供達との別れが一番こたえた。今まで一所懸命やってきたことすべてが無くなった!そんな気がした。自分の人生は何だったんだ。そんな中で、結局家も叩き売って本当のゼロからのスタートとなった。つらい、つらい。でもそれでも生きていかなければ・・・つい弱音が、死んだら楽だろうな・・ なんてふと考えてくるようになる。
心がとてもさびしい状況。風が吹くだけでびびってしまう。しかし子供達が一番の支えだった。この子たちに十分な教育だけはと学資保険を続けた。そのためにも仕事をなんとしても立ち上げるしかないと追い込まれながら、必死で事業をスタートさせていこうと決断した。



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2008年03月05日

京セラにて

さて、四回生の八月末まで、ボートだけに必死だった。就職のことも考える余裕がまったくなかった。どこに行こうか考えないと、卒業もしないと・・・そんな中で、どうせなら、一番の会社へ。日経の成長率ランキング一位の会社は・・・京都セラミック、株価日本一・・・と、京都ではないか!電話して面接へ。スーツも持っていない。だから学生服で、五十ccの原付で京都セラミック山科へ。面接・・・というより何名かの方と面談・・・なんと試験もなし。合格・・・へって感じ。まだそのときは小さい会社だったけれど、これから成長する会社を選べた。大学での評判は、あそこはとても厳しくて離職率が高いから、と他の会社を薦められたりもしたが、ここに決めた。体育会系で、真っ黒、体力あり、なおも学生服(俺だけだった)、使いやすそうですから・・・?
さて、そんなこんなで、稲盛和夫さんの最初の著書を読んだ。ある少年の夢。その中に、「人生の結果=能力×熱意×考え方」の一行があった。そうだ、俺たちがボートで東大に四年間負け続けたのはなぜか? 体力、経験、絶対に俺たちが上だ。でも負けた。そうなんだ。ボートもこの方程式が生きていた。自分の中でびっくりした。俺たちが四年間負け続けた理由がわかった。意識が違っていたのだ。試合が終わって、東大の漕手の話を聞いた。勉強もするが、練習休みは正月一日くらいで、テストが終わって帰ってきて、筋力トレーニングを自分で行う。全員が、自分の考えの中で練習し、最高の結果を試合で出す。ちなみに身長は、私たちのクルーは一八〇センチ超。全員高校からの経験者。また体重も七三キロ程度。東大のメンバーは、一七〇センチそこそこ、体重も六五キロくらい、高校での経験者は少なかった。何とか就職の内定が得られたが、単位不足は恐怖であった。しかし神風が吹いた。またもや学生運動で、試験がレポートに。ラッキーにも卒業できた。ボートから開放されて何か目的がなくなり、力が抜けた。王将でバイトなど、やっと学生らしい生活が送れるようになった。
社会人に・・・ そして、稲盛さんの会社に入ることができた。研修で稲盛さんに会った。入社の時に、「人間は、どれだけがんばれるんですか?」という愚問をした。「仕事での徹夜や、がんばりは、なんのことはない」というような答だったように思う。
研修後、セラミック事業部に配属。同期は三百人、各地の事業所へ配属されていった。実家からなるべく遠いところへ行かされているように思った。自分は琵琶湖にも近い滋賀工場、セラミック事業部であった。入社研修の際、いろんなメンバーがいた。今までのボート部の合宿からするととても楽だったが、中にはグチグチいうメンバーもいた。「だったら辞めたらいいやないか!」と言った。本当に辞めていった。京セラはこの考え方の部分は徹底していた。
京セラフィロソフィとの出会いもあった。潜在意識に透徹するほどの意識を持って、土俵の真ん中で仕事をする、など、刺激があった。また稲盛社長の話を聞くことがとても勉強になった。セラミック事業部には技術部すらなかった。製造部技術課へ。セラミックについてはまったく知識がなかった。しかし、そこは、自分の知らないことでもなんでもやっていって、大失敗をした。知識のないままにいろんな展示会へ顔を出して、今の課題に何とかなりそうな技術だと思えば、可能性に挑戦していった。しかし、本質を知らないことがどれだけ怖いことか!千五百万円の機械を導入しておきながら結局使えなかった。 そんなことがあったころ、ラグビーでの試合で足の靭帯を切ってしまった。入院だ。 えらいことになった。 もうクビだと思った。実際、評価はとても低く、入院しているときにそう思った。心がいい加減だったのだ。だから出てくる答もいい加減だったのだと思う。もう、クビ覚悟で一ヶ月して職場へ、とてもつらい状況。最後に何ができるだろうか?えらそうに、機械を導入すればこうなるんです、などとのたまっていた自分が恥ずかしい。
とりあえず今自分ができることをやろうと思った。それは、朝の机ふきとゴミ出しである。仕事ができないのであれば、最初に来て掃除だけは・・・と一ヶ月行っていた。すると、最初は誰も声をかけてくれなかったのが、ポツポツと声をかけてくれる人が出てきた。うれしかった。
まずセラミックのことを知らなくてはだめだと思い、毎日、夜二時までセラミックの本を読むことにした。現場の知識はわからないけれど、セラミックの学術的な本を徹底して読んだ。結晶や成分、特徴など、これらのことが自分を助けてくれた。徐々にセラミックの本質がわかってくると、会議で出てくる色々な問題や課題に対しての答が、本で得た知識をもとに仮説を立てて実証していくことで、確実に出てくることがわかった。
すぐに機械を入れてしまうのではなく、仮説を検証して、プロトタイプを立ち上げて、しっかりと現場へ落とし込んでいく。そんな中で、品質管理技術を学ぶ。
そのころから、不良を削減するための方法をコツコツと実証してきた。徐々に問題を解決できるようになり、また、開発も可能になってきた。またこのころから、機械を入れるときには、太郎坊さんという、京セラがお参りしている神社にお参りして、どうかちゃんと動いてくれますように・・と。これ以降、機械は、苦労はするけれど、動くようになっていった。
そして、半導体業界からのとてつもない品質要求が。ppm管理の導入である。つまり、これからの半導体は、多くのパーツの中で組み合わされることになる。たとえばひとつの製品に1000個の半導体部品が使われているとすれば、仮に100個に1個の割合で不良がある部品では、全体の品質はそれらの掛け算になる。つまり0.99の1000乗、これはさていくらになるでしょう? 0.004パーセント、つまり10万個に4個しか良品が出てこないことになる。半導体部品の信頼性を維持するためにはセラミックパッケージは、ppm=100万個に一個の不良を管理することが必須だった。しかし、この品質を維持するためにはどんなに検査をしても不可能だ。なぜなら検査でスクリーニング(省けるのは)できるのは、95パーセントだからだ。そう、すべての工程で、不良を作らない。工程能力を徹底的に上げ、それぞれのプロセスごとに管理を行っていくことが、不良をなくしていくことにつながる。各工程で品質を造り込むことしかない。
各工程の不良 標準偏差 σ1・・・σn 全体の不良が出る確率 σall=√(σ1^2+σ2^2・・・・σn^2) 各工程の相乗平均によって表される。つまり、規格が工程のばらつきの1・3倍あれば、不良は統計的に0になる。そのためにそれぞれの工程で起きる不良を徹底的になくしていく、「夢ライン」 プロジェクトを立ち上げていった。最初は、そんなことができるわけがないとみんなが言った。しかし、まず原料の不良の原因を徹底して受け入れ検査で省いた。その次に、プレスでの湿度、温度の影響を受けての不良、これは工場全体を恒温恒湿に、季節要因が出ないような環境にしていった。このようにプロセス全体に対して大幅に改革を進めていった。
開始から三年で、工場は、まったく不良の出ない「夢ライン」となった。そのころ私は二七歳、部下も三十名くらい。京セラだからこのようなプロジェクトができたと思います。なぜなら、それぞれの部門で工夫をして、欠けがないよう、不良が出ないよう徹底していったからです。でも、これは自分が考えたんだと傲慢になっていたところもあったと思います。天狗になっていた自分がいたのだと思います。
その後、自分はなんとしても海外へ行きたいと思っていました。会社には海外研修制度があり、申し込みました。選抜され、研修に行かせていただきました。これがまた、自分の考え方を大きく変えてくれました。一九八〇年代のアメリカ。そのころは「ジャパンアズNO1」という時代で、アメリカより日本の方がすごいんだと言っていたころです。でも、半年間勉強させていただき、とても勉強になりました。 アメリカのダイナミズムに対して・・また、ベンチャー魂など、実際の経験ができたことがとてもすばらしいことでした。
このころから、自分は、セラミックの世界だけではなく、可能性を見出すために一度世界へ飛び出していきたいと思っていました。二八歳、セラミック全体の技術責任者になっていた。そして半年の海外留学、とてもありがたい。何物にも変えがたい経験をさせていただいた。そして不良0ライン「夢ライン」を構築したことで、今まで月に三十パーセントもの不良が出ていたのが、ゼロに・・大きなの赤字が出ていた事業部がとても大きな黒字に・・ そして品質が著しく向上することによって、セラミックパッケージの世界シェアは、No.1にもなった。「夢ライン」の構築で、社長賞をいただけました。海外への夢ラインプロセスのプレゼンのために多くの国へ行った。とてもすばらしい経験をしました。
そんな中で、三ヶ月に及ぶ海外出張から帰ってきてから、組織変更がありました。 そして本社勤務に・・・そう、本社の戦略開発室に召集されました。でも、現場から離れていることが、ちょっとさびしい感じがしました。また、数年で、経営推進室という社長直轄の部署に異動しました。多分そのときが、京セラが中国などへ進出するタイミングだったのだと思います。そして、私に中国海外推進室責任者の辞令が出るタイミングが、ちょうど私の三五歳の誕生日でした。『企業家誕生―四十歳からでは遅すぎる』(邱永漢著)を読んでいて、人生の上で、事業を立ち上げるのであれば三五歳と決めていました。「夢ライン」を通して、支援いただいた中小企業の方々のように、社会の中で事業を立ち上げられたらという思いがあったのです。また、本社という現場と離れたところでの活動が、自分のやりたいこととは違っているような、なにか違和感があったのかもしれません。
そんな中で、自分の将来を考えていました。事業を自分がやってみたらどうなるんだろう。本社部門で企画を書いていることから、自分自身が計画して、稲盛社長が経験されていたような、事業の一からの立ち上げを経験しなくては、本当の事業家としてどうなんだろうと考えていて、事業計画を作り上げた。
自分ではこの内容を京セラの事業としてできればとも思っていたが、甘かった。これからの仕組みを考えていく上で、「夢ライン」を実際に手伝っていただいた方々の事業を、元気にする会社をイメージしていた。今回の計画は京セラの中でと考えていたことで、実際の顧客がいるわけでもなんでもなかった。  
自分の中に、今後の人生を考えて、今を逃したら・・という焦りがあったようだ。一ヶ月間いろいろ話があったが、最終的に退職してスタートすることになった。今までは、何をやるにも、自分がこうやりたいということをやらせていただいていた。今回の事業計画も自分の新しい取り組みとして、イントラプレナー(社内事業)としてやれたらと虫のいいことも考えていた。しかしそうはいかなかった。




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2008年03月04日

ボート部での経験

彼からボート漕がないか?との誘い。うーん、中学校では、小学校から競技を続けていたメンバーに勝てずイマイチだった。そうだ、ボートならいいかも・・そんなこんなで岩手の盛岡三高での生活が始まった。さて、そこから人生が大きく変わっていった。ボート部に入り、何かやっているって感じに少しずつ・・二年のときに、先輩がインターハイへ出場、そして同級生も一緒に出場・・・なんと全国四位に・・・三年生になる。前年に先輩とコーチが喧嘩をして、我々にはコーチがいなくなった。自分達で練習を考え、実際に練習した。厳しさより、なあなあになっていくような感じもしたが、自分達しかいないのだから、自分達で考えて練習するしかなかった。そのことがいい結果として出てきた。自分達で練習を組み立て、漕ぐ。考える。ラッキーもあったと思う。ほかの高校は毎日練習。我々の高校ではテスト一週間前は練習禁止。練習時間だけをみると少なかったと思う。しかし、県予選から全国大会へ。なぜどんどん上がっていったのか?不思議な力によって、奇跡的に全国大会で準優勝できた。これからボートの世界への導きがおきる。
同志社大学のボート部へ。ブラックジャックに憧れ、医者になれたらと思っていたが、能力も自覚も足りない。そんなところへ、各大学からボートでの誘いが・・ ・推薦で引っ張られる。明治、中央、同志社など数大学から推薦。先輩が同志社にいた。そんな中、入試の不安もあって推薦に乗った。しかし、体育会系の推薦は文系のみ、同志社大学の経済学部。でも俺は理系だ。結局、経済学部の推薦入試に受かっていながら辞退する。
しかし、工学部で受験して入学できた! そんなこんなで結局、工学部に入学、ボート部へ。四年間合宿生活、毎日朝五時から三時間の練習、終わったあと、一年生は皿洗い、買い出し、練習についていけない。 夕方五時からまた三時間練習。これが毎日だ・・・たまらん! しかも工学部で学びながら・・・そして、高校生レベルの体力が如何に低いのかが骨身にしみた。徹底的にしごかれた。一緒に入ったメンバーは、入院する者、富士山へ逃げる者・・・たいへんな厳しい練習。授業なんか行けるわけない。疲れてしまって、いつ逃げようか、そんなことばかり考えていた。
しかし、八月の全日本学生選手権、一回戦、及び敗者復活戦で敗退・・・でも、これを経験してしまうとボートはやめられない。必死で二千メーターを漕ぐ、そして、ローアウト(漕ぎ疲れて気を失う)する。でも、終わったら、それまでの練習や合宿生活での苦しかったことすべてが、みんなでひとつの目標に向かっていくことの喜びに変わっていった。ボートという競技はチームスポーツだ。そしてエイト。八人+コックスがそろわなくては何もできない。全員の力を合わせて、最高の一本のオールを漕ぐスポーツが、ボート。人間の肉体の限界を、二千メーターにかける。 誰か一人が強くても勝てない。一人一人のベクトルが合わなければ前に進まない。本当に毎日の練習で、一人でも欠けたら練習ができない。八人が六分間、まったく同じ動作をする。一本一本のオールを全員のために力をこめる。タイミングがずれていたらバランスが崩れ、船が進まない。そんな学生生活で、一年で取った単位が、半分以下。今ならすぐに留年・・そんなボート漬けの生活の中で、二年目にエイトに乗る。オックスフォード杯で準優勝ができた。先輩とみんなと、必死で漕いだ。そして、二年目の勉強の方は、学生運動が盛んでレポート試験・・助かった。四十近く取れる。三年で「対抗」(一軍)へ、でも春先に、新人と交代して「ジュニア」(二軍)へ。悔しかった。でも、ジュニアでも必死で漕いだ。三回生として、四回生と下級生との連携の中で、なんとしても結果を出す。結局、オックスフォード杯で全国四位に。これも、準決勝で負けかけていたのをギリギリで決勝へ進んだのだ。
しかし私は、四回生ではジュニアの担当をと監督に申し出た。工学部でもあり、ジュニアを見させてくださいと・・ そしてジュニアを任せられた。そこで今までとはまったく違う練習をした。高校時代の練習方法。コーチから指示された練習はまったくやらず、一人一人の成長に合わせた内容にした。徹底的に考えた。体力も経験も一軍には程遠いメンバーで、どう勝つのか・・・どう考えても昨年より戦力は劣る。そう、徹底的に基礎を行う。普通の半分のピッチで漕ぐ。陸上での練習も徹底的に合わせる。バック台というレールだけの練習機で、徹底的に呼吸と漕ぎを合わせる。琵琶湖で一番遅いクルーだと言われた。そんなことはどうということもない。しかし、そんな遅かったクルーが速くなってきた。 どんどん・・・ 目をつぶっても、一人一人のオールが見える。水に入る最初のポイントが見える。足の裏の指の先で、水に入るタイミングがわかる。そんなクルーになってきた。ジュニアの船が走り出した。漕いでいて笑えてきた。あまりにもオールが軽い、そして、船が走る。この感触は、フロー感覚だ。この感覚は、天国にいるような感触だ。突然、オールがしなりだす、船が走り出す。高校のときに感じた感覚が戻ってきた。そう、フロー感覚。楽しい、本当に楽しい。みんなが笑って漕ぐ。それだ・・・それがボートだ。
言われるまま漕ぐんじゃ、単なる拷問にしかならない。今でも一番感謝しているのは、漕手のことを考えて、毎日飯を炊いてくれているマネージャ、そして学連担当のメンバー、金集めに走ってくれるみんな、そして、みんなが漕いでいけるように環境を作ってくれる部長や、艇友会、すべての人たちがいて、今のこの一本が漕げるんだ。そんなことが、わかってくるんです、実際に・・・ せっかくのみんなとの時間、楽しく、そして試行錯誤。みんながひとつになったときに、空を飛べる。そんなことを後輩には四年間で味わってほしいと思う。四年間、徹底的に鍛えられた。その中で、フォローワーシップならびにリーダーシップを教えられる。そしてとうとう、対抗にジュニアが並べて勝っていけるようになる。体力と経験ではない、自らが考えて漕ぐということが、とても大きな力になる。私はみんなを集めて、科学的にボートがなぜ走るのかをレポートに書いて、見せていた。
そんなとき、コーチから、クルーをばらばらにすると・・・ なぜそんなことを・・今までのことを否定するように・・・ 悔しい。涙が出た。そんなに信用できないのですか!と言ってしまった。私は一軍へ戻ってくれと言われ、上がった。しかし、インカレ前の関西での試合はまったく振るわなかった。ガタガタの状態だった。
そんな中、マネージャが、二ヵ月後の全日本大会のための最後の賭けを後押ししてくれた。急ごしらえのため、チームのユニフォミティができていない。このままでは決勝へ進めない。マネージャ達と、早く開催地の東京へ行って、荒川で徹底的に漕ぎこんでチームを固める。通常より一ヶ月も前に東京へ、そして全日本へ。準決勝で優勝候補を追い詰めて、最後、腹を切ってしまい二位だったけれど、決勝へ。最後は、死に物狂いの決勝、いったん二位まで上がっていながら、私が最終まで力が続かなかった。四位に終わった。しかし、これすら無理なような状態だったのを、この一ヶ月の練習と、池谷君の執念の漕ぎ、彼の七番のオールの力が二番の私にまで伝わった。なんというやつだ。俺がもっと体力があれば・・・社会人になっても、ずっと親友だ。あいつがいて俺がいる。そんな中で・・・ なんとジュニアが優勝した。オックスフォード杯で。なんともうれしい。そんなジュニアを引っ張ったのが、私と替わった野瀬君。彼の力が全体の力を引き出したのだ。一軍二軍とも入賞、そんな結果を得られた。すばらしい友と四年間であった。三十年過ぎてもいまだに先輩後輩ひっくるめて、親しくつきあっている。一生涯の友ができた。そのフローの経験が、自分の人生を決めた。




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2008年03月03日

幼少期

一九五八年八月四日、富山県高岡市に生まれる。長男。母親はNTTの前身に電電公社に交換手として勤める。父親は屋根材料問屋に勤務。父はとても忙しく、仕事に明け暮れていた。母はとても優しく、またとても明るい性格であった。共働きでいたために、私はおばあちゃんのところにいることが多く、おじいちゃんやおじさんなどからも愛情をいっぱい受けて育った。
まったく苦労なく、すくすく育ったと思う。近所の子について歩いていく。また、泣かされて帰ってくることもある気の弱い子であったように思う。小さいころから、積み木や、メンコなど、工夫して作るのがとても楽しく、プラモデルなども、戦闘機、戦艦など片っ端から作り上げていた。色を塗ったり、プラスティックを溶かしてアンテナにしたりしていた。周囲の人たちは、家のことや人との関係など、体裁を気にする傾向があったように思う。富山県の人の性格があまり好きになれないところがあった。
小学生のころは、両親から買ってもらった百科事典、十一巻の大きなものを毎日読んでいた。動物や科学など、百科事典が黒くなるほど読んでいた。
授業中は不真面目・・・とても・・・隣の子と話をしたり、落ち着きのない子であった。また、百科事典を読み漁っていたので、ところどころでみんなが知らないことを知っていることでびっくりされることが、また楽しみでもあった。目立ちたがり屋であったと思う。が、とても小心者でもあった。『科学』と『「学習』(雑誌)を楽しみにしていたし、実験もとても好きだった。 毎日、放課後、野球や、夏は水泳で、真っ黒になるまで遊んでいた。
父親の転勤。小学校から中学校へ上がるときに、富山から秋田へ引っ越した。なんてところへいくんだろう、と・・・そこは父の会社の事務所や工場などと同じ建屋に住まいがあった。会社は屋根・板金の問屋であった。会社の人たちと一緒に生活をすることになったという大きな環境の変化と、秋田というまったく知らない東北の地に引っ越したことが、子供心にとても大きな変化であった。 友達が誰もいない、道すがら油田が動いている。さびしいところへ来たな・・・でも、父親、母親と一日中一緒にいられるところでもあり、 環境変化に適応していった。地方によって考え方もさまざまだなと実感した。秋田山王中学校・・・まわりの生徒はズーズー弁。とてもきれいな女の子もズーズー弁で話す。そんな中で、一週間でみんなと仲良くなっていった。 柔道部・・・学校で一番厳しい、そして全国大会にも出場している柔道部へ入部・・・ しごかれた・・・陰気・・・ 面白くないので退部して、二年生になるときに卓球部に入った。選手になれないのでちょっとつまらなかった。初恋・・・とてもきれいな子がいて、その子と映画へ行った。初々しい。思春期の多感な少年でした。
秋田は、とても厳しい気候と環境にいながら、みんなが、今日を如何に楽しんで生きるかを考えるという、とても明るい地域だった。大好きです。 
高校受験。その秋田で高校受験。新設の高校、秋田南高校普通科へ。入試は良い成績だったと思う。本番に力が出た。感謝!多分クラスで成績も上位だったので級長に・・・でもすぐに遊んでしまう。最初の試験で自分だけが赤点を取ってしまった。下がるとくそっと必死のパッチで勉強する。そうすると気を抜いて、また下がる。そんな目標のない勉強方法だったと思う。第一学期の夏休みになんと・・・転校・・・がまた・・・盛岡へ。入ったばかりの高校をすぐに父親の新規出店のために転校・・・転校の試験はバッチリ、くそっとがんばった後だったので・・・入るときはすごいやつがくるぞと・・でも、結局また上がったり下がったりの成績・・何かしようかな・・・と思っていたら、そのクラスにボート部のメンバーがいた。 




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